人口減少社会に適応する時代の針路

食育に取り組むこどもたち

令和元年(2019)人口動態統計の結果

 2020年6月5日、コロナ禍の騒動の中、厚生労働省は令和元年(2019)人口動態統計を発表した。主要な統計ポイントをまとめると次の通りである。

  • 出生数 86 万 5234 人で、前年の 91 万 8400 人より 5 万 3166 人減少
  • 1人の女性が生涯に産む子どもの推計人数を示す「合計特殊出生率は1.36(前年を0.06ポイント下回り、4年連続低下)
  • 死亡数から出生数を引いた人口自然減は51万5864人で、初めて50万人を超えた

 平成28年に、出生数は100万人を割り込み、約97万人となり、それから減少傾向が続いている。少子化で将来の働き手に対する懸念が毎年のように出てくるが、一度下がり始めた出生数は、そう簡単に歯止めが効くわけではない。

 中間層以下の「所得」に関する低迷に加え、不安定な雇用、正社員であっても将来に不安が残る雇用環境など、社会の先々が見えない状況下で、何ら後ろ盾もなしに「産めや増やせよ」の政策は通用しない。だからこそ、出生数とは、国民一人ひとりや世帯による「将来への期待」がそのまま現れる数字と言っても過言ではない。

 この漠然とした不安の中、消費税は令和元年に10%に増税され、消費の冷え込みが懸念されていた最中に、世界中を猛威に奮った新型コロナウイルス感染拡大による需要の蒸発。半ば強制的に経済活動が遮断された先に待っているのは、復興でも復活でもない。「生き残り」という厳しい生存競争にほかならない。

「欲しい」か「無駄」の2択社会

90年代バブルの頃は、膨張し続ける欲望に、供給し続ければ、売上は上がり続けた。もっと欲しい、これも欲しい。際限なきサイクルの先には「バブル崩壊」という崖が待っていたわけだが、それでも先行きは「攻め」の一点突破だった。

 転換期を迎え、長引く不況にリーマン・ショック。失われた20年ともいわれる日本経済の時間経過は、長年の鬱屈した行き詰まりを打破するかのごとく「アベノミクス」というかたちで、株価を支えるものの、景気や生活は「全体」ではなく、「個々」の直面する事情や課題によって多く評価は分かれる。デートに車が要らなくなったように、物理的活動範囲は極小化する一方、スマホの画面を通した世界は地球を何周をもめぐる無限の中で、欲望と期待が入り混じり、課金という定額や従量制のフィーを払いながら、人はそこに生きている証を残そうとする。

 そこで繰り広げられる日々の選択は「欲しい」か「無駄」の2択であり、欲しいものだけに囲まれて、肯定される存在であることを研ぎ澄ましていくことが「美しい人生」という虚像を増大させていく。それはリアルな世界では儚く脆いことを当人たちは知らない。

「同調」と「ウソ」の狭間

 このままリアルとバーチャルを行き交う人々が、いったい何を求めて生きていくのか。「やりがい」という枕詞を掲げつつ、失敗と経験を積み重ねないまま脆弱な”妄想”タワーという人生を建設していく中、彼らに「消費」させるのは簡単だ。

 徹底的に「同調」し、「共感」というウソで信頼させ、「不安」という圧力で一気に不安定な状況に追い込み、「購入」というボタンを押させるだけ。それは、決して新しい方法ではなく、昔からずっとこの方法で、商いをしてきた存在、「詐欺師」の真骨頂である。

 だから、これからは「詐欺」や「新興宗教」のような手法で近付き、骨の髄まで信望するような黒に近いグレーな手法で、生き延びていく集団ができてもおかしくはない。でも、そんなやり方はすぐに暴露され、参加者とともに崩壊していく。「ウソ」をつく人が、自ら陥る罠は、「ウソ」とは、「ウソ」という虚像になりたっているから「ウソ」であって、その土台は脆いということ。だから、いつの時代も「続かない」のだ。

 このような混乱期に先に残るものは、本質的価値に特化し、シンプルでわかりやすい価値を提供したモノにほかならない。ゆえに、これからの商品のありようは、「パッケージを脱ぐ」ということ。脚色や誇張は一切抜きにして、裸の商品がそこにあるとき、イメージできるものは何か。その本質的価値を徹底的に追求することである。

 ラベルを剥がしてみよう

 中身だけで選ばれる存在になろう

我々商売人は、いつまで「ユニクロ一強」を許したままでいるのですか?

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